平成
14年
10月
末代の衆生を、
往生極楽の機にあてゝ見るに、
行すくなしとてうたがふべからず。
一念十念にたりぬべし。
罪人なりとてうたがふべからず。
罪根ふかきをもきらはず。
時くだれりとてうたがふべからず。
法滅已後の衆生なを往生すべし。
いはんやこのごろをや。
わが身わろしとてうたがふべからず。
自身はこれ煩悩具足せる凡夫なり
といへり。
【一紙小消息】(法然上人)
極楽往生の機縁と修行を末世の人々に当てはめてみると、
たとえ念仏を唱える数が少なくても往生を疑ってはならない。
一念十念の念仏を唱えた者でも往生できるからである。
たとえ罪人であっても往生を疑ってはならない。
仏はいかに罪深い者でも捨てないと説き給うているからである。
時代が下って末世となっても往生をうたがってはならない。
釈尊は経法が滅し去った後でも念仏を唱えれば往生
できると説き給うている。
まして末法万年にならない今の世に往生できないわけがない。
わが身に煩悩が多くても往生を疑ってはならない。
善導大師すら自身は煩悩を具足している凡夫であると
いい給うているのである。
平成
14年
11月
修諸功徳の水、三輩修行の影を浄め、
本願往生の月、一向専念の窓を照す。
【仏説無量寿経】(法然上人・三部経釈)
阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩として修行されていたとき、
限りなくさまざまに積まれた功徳の水は、
上輩・中輩・下輩の段階に分れて
修行していたすべての人々の影を浄めて、
みな平等に極楽に往生することが出来るようになり、
弥陀の本願に乗じて
往生するという月は、あざやかに、
ひたすら南無阿弥陀仏と
称える人々の窓を照らすのである。
平成
14年
12月
念仏にものうき人は、
無量の宝を失べき人なり。
念仏にいさみある人は、
無辺の悟を開くべき人なり。
【十二問答】
(法然上人・法語集。)
念仏をいやいや申している人は、
数えきれない宝を失っている人である。
念仏をよろこび勇んで称える人は、
かぎりない悟りを開く人である。
『十二問答。・・・弟子の禅勝房との
十二の問答の一つである。』
平成
15年
1月
口にも名号をとなへ、
こころにも名号を念ずることなれば、
いづれも往生の業にはなるべし。
ただし仏の本願は称名の願なるがゆへに、
声をあらはすべきなり。
かるがゆへに経には声をたえず
十念せよととき、
釈には称我名号下至十声と釈したまへり。
わが耳にきこゆるほどをば、
高声念仏にとなり。
さればとて、機嫌をしらず、
高声なるべきにあらず。
地体は声をいださむとおもふべきなり。
念仏というのは、口に名号をとなえ、
心にも名号を念じているのであるから、
声に出しても出さなくても、
極楽往生の行になるのである。
ただ、仏の本願はは称名の願であるから、
声に出した方がよい。
このゆえに、「観無量寿経」には、
声をたえないようにして十念せよ、
と説き、善導大師は、わが名号を称えること、
下十声に至るまで、と解釈されたのである。
自分の耳に聞える程度の声を、
高声念仏というのである。
人がそしり嫌うのも知らず、
あまり高い声で唱えるのはよくない。
本来は、声に出して念仏を称えようと思うべきである。
平成
15年
2月
人の心は頓機漸機とて、
ふしなに候なり。
頓機は聞てやがてさとる心にて候。
漸機はやうやうさとる心にて候なり。
ものまうでなどし候に、
足はやき人は、
一時にまゐる心だにも候へば、
遂にはとげ候様に、
ねがふ御心だにわたらせ給候はず、
年月をかさねても、
御信心もふかくならせ
おはしますべきにて候。
(法然上人 勅修御伝・第二十三巻)
人の心は頓機(とんき)・漸機(ぜんき)といって、
二種類に分れる。
頓機というのは、
聞いたことをすぐさとる心である。
漸機というのは、
だんだんとさとる心である。
お詣りなどする時に、
足の速い人は、
僅かな時間についてしまうのに、
足のおそい人は、
一日かかってもなかなかゆきつかぬような状態でも、
お詣りする心さえあれば、
いつかは目的をとげるように、
往生を願うお心さえあれば、
年月をかさねても、
御信心が必ず深くなられるのである。
平成
15年
3月
三心とは至誠心・深心・廻向発願心なり 至誠心(しせいしん)=まことの心
深心(じんしん)=深く信ずる心
廻向発願心(えこうほつがんしん)=自分の積んだ功徳を
すべてふりむけて極楽往生を願う心
平成
15年
4月
会者定離は常のならひ、
今はじめたるにあらず、何ぞ深く歎かんや。
宿縁空しからずば同一蓮の坐せん。
浄土の再会甚だ近きにあり。
今の別れは暫の悲み、
春の夜の夢のごとし、
誹謗ともに縁として先に生て後を導かん。
引摂縁はこれ浄土の楽なり。
会った者は必ず別れねばならないというのは、
世の常のならいであって、今はじまったことではない。
どうして深く歎くことがあろうか。
前世の因縁が空しくなったら、
必ず極楽の同じ蓮の上に生れるであろう。
浄土での再会の時期はもう近い。
今の別れは暫くの間の悲しみであり、
春の夜の夢のようなものだ。
念仏を誹謗する人があっても、うらむに思うことなく、
それを縁として、
先に浄土に生れたものが後からくる者を導こう。
あとから来る人を導く縁は、浄土の楽しみの一つである。
平成
15年
5月
念仏申にはまたく別の様なし。
ただ申せば極楽へむまると知りて、
心をいたして申せばまゐるなり。
(法然上人 勅修御伝・第二十一条)
法然上人がいわれるには、
念仏を申すのは、別段変ったことは何もない。
ただ念仏を申すだけで極楽へ生れると知って、
一心に念仏を申したら、必ず極楽に往生するのである。
平成
15年
6月
この難に乃ち多くの途あり。
一は外道の相善、菩薩の法を乱る。
二は声聞の自利、
三は无顧の悪人、他の勝徳を破す。
四は顛倒の善の果、よく梵行を懐る。
五はただしこれ自力のみにして
他力の持つなし。
この不退転の境地を得るのが難しいということについて、
多くの理由がある。
第一には仏道以外の修行者が、ややもすると、
本当の善とまぎらわしい行為をするので、
菩薩の法が乱されることである。
第二は自分だけの利益、
自分だけの悟りを求める声聞があって、
すべての人に慈悲を施そうという気持ちが
妨げられるのである。
第三は、自分の行為を反省しない悪人が、
他のすぐれた人の徳を傷つける。
第四に、自分の現世の欲望や名声のために善果をとする
誤った考えが、菩薩の浄らかな行をこわすことである。
第五には、すべて自力のみだ善行を行って、
他力の大きな力に支えられた救いというものが
どこにもない。
平成
15年
7月
弥陀の本願は機の善悪をいはず
行の多少を論ぜず。
身の浄不浄をえらばず、
時処諸縁をきらはざれば、
死の縁によるべからず、
罪人は罪人ながら、
名号を唱へて往生す、
これ本願の不思議なり。
弓箭の家に生れたる人、
たとひ軍陣にたたかひ命を失ふとも、
念仏せば本願に乗じ来迎に預らん事
ゆめゆめ疑べからずと。

(法然上人 勅修御伝 第二十六巻)
阿弥陀仏の本願は、人の善悪を問わず、
行の多い少ないということも関係なく、
その身が清浄であるか不浄であるかを差別せず、
時や処、縁などを問題にしないから、
どういう死に方をしたかということにもかかわりなく、
罪人は罪人のまま、名号を称えて往生する。
これがまことに本願の不思議である。
武士の家に生れた人は、たとえ軍陣の中で戦い、
命を失っても、念仏を申しておれば、
阿弥陀仏の本願のまにまに仏のお迎えにあずかることを、
決して疑ってはならぬ。

平成
15年
8月
第十八の念仏往生の願、
あに孤りもつて成就せざらんや。
しかれば則ち念仏の人、
皆もつて往生す。
何をもつてか知ることを得。
即ち念仏往生の願成就の文に
「もろもろの衆生あつて、
その名号を聞きて信心歓喜して、
ないし一念心を至して廻向して、
かの国に生ぜんと願ずれば、
即ち往生を得て不退転に住す」

と云ふ、これなり。

(選択集。四十八願の成就について)
どうして、四十八願中の本願である第十八願の
念仏往生の願だけが、実現しないということがあろうか。
だから、念仏を称えるひとは、皆極楽往生するのである。
どうしてそれを知ることができるかといえば、
「無量寿経」の念仏往生の願成就の文に
「もろもろの衆生が、阿弥陀仏の名号をきいて、
心から信じ歓喜して、一回でも真心をこめて念仏し、
その功徳をふりむけて極楽に往生したいと願えば、
ただちに往生することができて、
決して退転しない境地に達する」

と書かれてあるのが、それである。
平成
15年
9月
念仏往生の願は、
これ弥陀如来の本地の誓願なり。
余の種々の行は、
本地のちかひにあらず。
釈迦も世に出給事は、
弥陀の本願をとかんと
思食御心にて候へども、
衆生の機縁に随ひ給ふ日は、
余の種々の行をも説給ふは、
これ随機の法なり
仏のみづからの御心の底には候はず、
されば念仏は弥陀にも利生の本願、
釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には似ず候也。

(法然上人 勅修御伝 第二十八巻。)
念仏往生の願は、
阿弥陀仏がまだ菩薩の時に
たてられた誓願である。
他の種々の行は、
仏の前世からの誓いではない。
釈迦もこの世にでられたのは、
弥陀の本願を説こうというお心であったが、
衆生のさまざまな境地に応じて、
余の種々の行をもお説きになったのは、
対機説法であって、
仏の御本心ではなかった。
だから念仏は阿弥陀仏が
一切衆生を救われるための本願であり、
釈迦如来にとっても、
この世に出られた本当のお心である。
他の種々の行とは違っている。
平成
15年
10月
修十善業は、
一は不殺生、二は不偸盗、三は不邪淫、
四は不妄語、五は不綺語、六は不悪口、
七は不両舌、八は不貪、九は不瞋、
十は不邪見なり。

(法然上人 選択集)
十善行を修するというのは、
一は殺生しない。二は人のものを盗まない。
三は邪淫をしない。四はうそをいわない。
五は巧みに偽り飾って誠実を欠く言葉をださない。
六は悪口をいわない。七は二枚舌を使わない。
八は貪(むさぼ)らない。九は瞋(いか)らない。
十は邪(よこしま)な見解に走らない。の十である。
平成
15年
11月
衆生障り重く、境は細く、
心は麁し、識あがり、
神飛んで、
観成就し難きによるなり。
ここをもつて、大聖悲憐して、
ただちに専ら名字を称せよと
勧めたまふ。
正しく称名の易きによるが故に、
相続して即ち生ず。

(法然上人 選択集)
衆生は罪障が重く、ものの見方が狭く、
心が粗雑で、いつも動揺しているから、
仏を観ずるということが出来にくい。
このため、釈尊が人々をあわれんで、
ただちに名号を称えることに専念するのを
勧めたもうのである。
仏の名を称えることは容易であるから、
これをずっと続けることによって、
容易に往生することができるのである。
平成
15年
12月
念仏往生とは、我等衆生、無始以来、
十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・
破見等の無量無数の大罪を成就せり。
これによって、
未来無窮の生死に輪廻して、
六道・四生・二十五有の間、
諸の大苦悩を受べきものなり。
しかりといへども、法蔵比丘、
五劫思惟の智慧、
名号不思議の法をさとり得て、
凡夫往生の本願とせり。
此願すでに十劫已前に成就せし時、
十方衆生の往生の業は
南無阿弥陀仏と決定す。

(一遍上人語録 巻上)
念仏往生というのは、我等衆生は、はるかな昔から、
十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の
無量無数の大罪を犯してきた。
このために未来永遠につきない生死の世界に輪廻して、
六道・四生・二十五有のさまざまな世界に生れて、
種々の大きな苦しみや悩みを受けるよりほかなかったのである。
しかしながら、法蔵菩薩が、
五劫という長い間いろいろ修行して智慧を得、
一心に名号を称えるという不思議な法をさとることが出来て、
愚かな凡夫が極楽浄土に往生する本願とされた。
この本願が十劫の昔に成就した時に、
十方世界の衆生の浄土に往生するための行として、
南無阿弥陀仏と称えることが決定したのである。

書籍 浄土宗名句辞典
著者 藤村義彰
出版社 国書刊行会
 

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