★平成14年10月〜平成15年12月★
★平成16年 1月〜平成16年12月★
★平成17年 1月〜平成17年12月★

平成18年12月 ●よき師に出会う
【愚かなる者は、終生賢者に侍すとも、
法を知らざること匙のあつものにおけるがごとし】

冒頭の一文に続いて、『法句経・六五』に「賢者に接すること、たとい瞬時なりとも、
智者はすみやかに法を知ること、あたかも舌のあつものにおけるがごとし」
と記されている。
愚かな者は、よき師に出会っても、ちょうどスプーンが料理を口に移す役目を
果たしながらも、自らはその味を知ることができないように、法を知ることはできない。
が、知恵ある人がよき師につくと、自分の舌が口に運ばれた料理の味を瞬時に
キャッチするのと同じように、法をすみやかに知ることができる、という。
われわれは、一生の間に実に多くの人に出会うが、
自分をほんとうに向上させてくれる師とはなかなか出会えないようだ。
むしろ、そういう師に一度も出会わずに、人生を終えるケースもあるのではなかろうか。
そうしためぐりあいのない者は、少しでも早くよい師に出会うべく、
その門をたたいたらどうだろう。
曹洞宗の開祖・道元(1200−1253)は、『正法眼蔵』で、「仏法を伝授することは、
かならず証契の人をその宗師とすべし。
文字をかぞえる学者をもてその導師とするにたらず。一盲の衆盲をひかんがごとし」
と述べているが、よい師とは、知識を切り売りする者ではなく、
ものの道理をよくわきまえた知恵ある人をさすのである。
実は、みつけようと思い立てば、よい師はわれわれの周囲にいくらでもいるものである。
《法句経・六四》
平成18年11月 ●手足に感謝する
【大御足跡を、見に来る人の去にし方、
千世の罪さへ滅ぶとぞいふ、除くとぞ聞く】

奈良の薬師寺に現存する仏足石歌は二十一首を数えるが、
それらは天平勝宝五年(七五三)につくられたとされる。
冒頭の一首は、そのなかの恭仏跡十七首の末尾の歌で、意訳すると、
仏徳を讃歎するために釈迦の足跡を礼拝に訪れる人は、
現在はもちろんのこと、過去において犯した罪まで消滅し、
除かれる、ということになろう。
 貧困のなかで創作生活を送った石川啄木は、
  『働けど働けどわが暮らし楽にならざり じっと手を見る』とうたっている。
では、自分と苦楽をともにしている、しわだらけの手を見て、「ありがとう」と、
心のなかで感謝のことばをつぶやいたことがある人は、
はたしてどれくらいいるだろうか。
足にしてもそうである。毎朝起きてから寝るまで、一日中、文句もいわずに、
地を踏みつづけ、歩を進め、身体を支えている足に対して、どれほどの人が、
「ご苦労さま」と、ねぎらいのことばをかけたことがあるだろうか。
自分の手足なのだから当然というなら、
事故や病気で正常に機能しなくなったときのことを想像してみるとよい。
当たり前に動けることが、どんなに貴重でありがたいものか、
あらためて思い知らされるにちがいない。
《仏足石歌》
平成18年10月 ●人は生かされている
【衆生仏を礼すれば、仏これを見たまふ。
衆生仏を唱ふれば、仏これを聞きたまふ。
衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じたまふ。】

この一節は、われわれ衆生と仏は対立しあう存在なのではなく、
お互いが打てば響くような存在であり、礼すれば見、唱えれば聞き、
念ずれば念じてくれるのだ、という意味である。
われわれが努力しただけのことを仏は与えてくださるということであり、
われわれと仏が感応同交し、われ仏に入り、仏われに入る
「入我我入」の境地を説いたものである。
この境地を禅門では、ただ仏のみが仏を与える「唯仏与仏」ともいい、
こうした仏と自分が同一の絶対の境地に入れたら、それこそ最高のしあわせである。
そこでは、自分が一人で生きているのではなく、
自分が生かされて生きているのだという事実に気づき、
孤独感にさいなまれる必要がないからだ。
私はよく飛行機を利用して国内外を旅行するが、いったん機内に乗り込んだ以上は、
いくらじたばたしてもはじまらず、いのちを操縦士にあずけるしかない。
われわれの日常生活も、それと似ているとはいえまいか。
いつ、なんどき、どんな目にあうか予測がつかない
毎日を送らざるをえないのであるから。
ならば、運を天にまかせ、いつも仏に抱かれていると考えれば、
そんなに不安に駆り立てられることもないのではなかろうか。
《法然・勅修御伝》
平成18年9月 ●真の自由とは
【心、当に人に随ふべし。人、心に随ふなかれ。
心、人を誤り、心、身を殺す。】
浄土真宗の立教開宗の書として知られる『仏般泥おん経』は、
親鸞が元仁元年(1224)に著したともいわれ、
念仏往生の教えを体系化し、注釈したものである。
自由というのは元来、仏教のことばである。
「自らに由る」と書くように、独立自存し、なにものにもとらわれない悟りの境地をさす。
それはまた、欲望に振り回されず、むしろ、それを自在にコントロールすることを意味する。
この境地を親鸞は、身心が柔軟になると表現している。
したがって、そこには当然、自分としてのきびしい規律や節度が求められ、
それが自然に備わってはじめて、自由自在に欲望を昇華させることが可能になる。
そうでなければ、獣のごとき欲望に縛られ、不自由になってしまう。
われわれは自由と放縦とを混同してしまうきらいがあるが、
この二つは似て非なるものである。
また、自信をもつことと、自慢することも別のものである。
同様に、自立と孤立、品位と気位、個人主義と利己主義も、
それぞれまったく別のものである。
このちがいをはっきりさせ、勝手気ままな行動に走る恥を知り、
自分の節度をわきまえて、分に従って行動すべきであろう。
わがまま放題が許されている今日ほど、
「真の自由」のありようが問われているときはない。
《仏般泥おん経》
平成18年8月 ●矛盾に気づく
【直ちに根源を截る人、未だ識らず、茫々たる業識、幾時か休む】

日本最高の思想書といわれる『正法眼蔵』は、曹洞宗の祖と仰がれる道元の著で、
禅の本質や規範を述べたものである。
漢語を縦横に駆使した難解な書として知られている。
人生とはおかしなもので、「これこそが真実だ」と思ってつかんだものでも、
それをいつまでもつかんでいると、真実でなくなってしまうようなところがある。
それは、結婚によく似ている。
自分も相手もともに惚れあい、恋愛の延長で結婚したつもりでも、
相手にも、結婚生活にも、別の側面があることにすぐ気づかされるものだ。
そして、あとはただ惰性で結婚生活が続くだけ、といったケースもあるだろう。
このように、世の中のすべてのものには一時の停滞も許されないのであり、
つかんだものがたちまちつかんだものでなくなってしまうという矛盾の真理を、
われわれはわきまえるべきであろう。
冒頭の一節は、「我」を捨てようとすると、その捨てようとする自分が
また別の「我」の塊になってしまい、捨てても捨ててもあとから「我」が湧いてきて、
そのとどまるところを知らない、という意味である。
向上の心それ自体が瞬時でも停滞し、安住したとたんに、
捨てられるべき「我」になってしまうという、
自己矛盾の撞着性を説いているのである。
《道元・正法眼蔵》
平成18年7月 ●心を清める
【若し菩薩、浄土を得んと欲せば、当にその心を浄むべし。
その心、浄きに随って、即ち仏土浄し。】

『維摩経』は、大乗仏教経典のなかでは『般若経』に次いで古い経典であり、
ビィマラキールティ(維摩)という居士が主役のお経である。
冒頭の一文は、求道者が浄土に往生を願うならば、
まず自分の心を清浄にすべきだ、と説いている。
日常、われわれが下心や野心を抱いたり、気負って仕事に取り組むと、
かえって仕事がはかどらず、結果も思わしくないということがよくある。
「もうけてやろう」とか「カッコよく見せよう」などとよけいなことを
考えてやったことは、ロクな結果にならない。
自分の不純な心が丸写しになり、満足のゆく結果はえられないものだ。
そうではなくて、雑念や欲を捨てて無心になり、
ひたむきに取り組んだときには、会心の結果が得られる。
結果は求めずして自然についてくるのである。
とすると、「自分が笑えば世界も笑う」で、まずは、自分のほうから
虚心坦懐にほほえみかけることが大切なのではなかろうか。
ちょうど鏡のなかに映る自分のように、
こちらがほほえみをもって人や物に相対したときに、
はじめて自分のまわりの世界もほほえみ返してくれるのである。
世界平和なども、声高に叫ぶ前に、
まず、誰に対してもほほえみかけられるような
清らかな心境になることが先決なのではなかろうか。
《維摩経・仏国品》
平成18年6月 ●己を乗り越える
【仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり】

現状に甘んじ自分に固執して求道することは、
けっして悟りへの道ではなく、
むしろ常に現状を打破して新しくよみがえり、
それが世の道理にかなうことが大切なのだ、という。
私はよく、「あなたの一番楽しかったことと悲しかったことはなにか?」
と訊ねられるが、「いままでに一番楽しかったことも、悲しかったこともない。
なぜかといえば、これから、もっと楽しいことや、
もっと悲しいことがありそうだから」と答えることにしている。
その折々に、これがいままでで一番楽しい、あるいは悲しいと思っても、
むしろ、将来もっと楽しいことや悲しいことがあるのではないか、
という予感がしてしまうのである。
昭和を代表する小説家・劇作家の一人である川口松太郎氏は、
新聞記者時代に、チャップリンが来日したので取材に行き、
「あなたの一番の傑作は」と訊ねた。
すると、チャップリンは「次のもの」と答えたという。
これに感銘を受けた川口氏は、「あなたの傑作は」と聞かれると、
「そういうことは自分でいうもんじゃない。それは私が死んでから、
世間の人が決めるものだ。私が傑作だといっても、
本当に傑作でなければ、こんな滑稽なことはない」と答えていたそうである。
一つひとつ現在の自分を乗り越えて、
自分にとっての究極の一番をめざすところに、
人間の進歩があるのである。
《道元・正法眼蔵》
平成18年5月 ●らしく生きる
【人はあるべきやうはといふ八文字をもつべき也】

これは、京都栂尾の明恵上人として知られる
僧・高弁(1173−1232)の言行録の冒頭の句である。
仏教修行にあたっては、常に「けきたなき心」を捨てて、
「心身正しくして有るべき様に」振る舞え、といましめている。
人はそれぞれの境遇・能力・職業などに即して、心身ともに、
いま現在まさに行なうべきことを行なうのがよい、
との思想・精神をあらわす語が「あるべきやうは」である。
江戸時代の僧・鈴木正三(1579−1655)は、その著『万民徳用』で、
士農工商、そして僧侶など、職業別にそれぞれのあるべき姿、
すなわち職業倫理を説いたが、
これもその思想の延長線上にあるといえよう。
われわれは社会生活を営む以上、
いろいろな仕事に携わり、さまざまな立場に置かれる。
しかし、
はたしてそれにふさわしい「らしさ」を発揮しているといえるだろうか。
父は父らしく、母は母らしく、先生は先生らしく、学生は学生らしく、
日々、あるべきように行動しているだろうか。
われわれは、現在自分が置かれている立場に照らして、
「らしくあるかどうか」を常に自問自答し、
もしそうでなければ、「らしくしよう」と努力すべきであろう。
《明恵・遺訓抄》
平成18年4月 ●気楽に生きる
【念仏は、何にもさはらぬ事にて候ふ】

禅寺の山門にはよく「葷酒山門に入るを許さず」と書かれている。
「葷」とはニラ、ネギ、ニンニク、ラッキョウ、ハジカミの五辛をさし、
その臭気の不浄さと精力がつくため、出家者には禁じられ、
酒は仏道修行のさまたげになるのでやはり持ち込みが禁止されていた。
法然の弟子があるとき師に、
「そのようなものを食べて臭いが消えなくても、念仏は申さねばならないのでしょうか」
と訊ねたのに対する答えが、冒頭の一節である。
すなわち、「念仏さえ申せたら、そうしたものにこだわらなくてもよい」と。
いくら禁止したところで、戒律を犯す者がいれば有名無実であり、
かえって偽善的行為を助長するだけである。
それよりも、もっと気楽に念仏を申せるようにしたほうが、
ましな生き方ができるというものではないか、というのである。
「自然法爾(自力のはからいを捨てて、如来の手にすべてまかせきること)」に由来する
「法然」という名前そのものが、心身の緊張から自分を解放し、
リラックスすることを教えている。
われわれは、危険な仕事に立ち向かうときには真剣になり、緊張せざるをえないが、
緊張しすぎると心が縛られて判断力がにぶり、やるべきこともやれないことがある。
そんなときには、固くなった自分の心を解きほぐし、
自分を客観視できるくらいのゆとりをもって、
やるべき仕事に立ち向かうべきではなかろうか。
《法然・勅修御伝》
平成18年3月 ●臨機応変の対処
【酒のむ罪にて候か。まことはのむべくもなけれども、この世のならい・・・・・】

正確には、法然上人の法語を集めた『百四十五箇条問答』のなかの一節で、
弟子の質問に対する答えとなっている。
ふつうならば、「酒は飲まぬがよろしく候」と答えるべきであろう。
しかし、酒を飲むのは悪いことだからやめろ、とさとしたところで、やめられるわけもない。
どうにもならないことを、どうにかしようと力んでみたところで、結局はどうにもならないことを、
法然上人は自分の体験に照らして見ぬいていた。
そうしたことは、あれこれ思い悩んでも仕方がないのだから、
「ただ一心に念仏申させ給え」と答えるしかなく、人間の浅知恵ではどうにもならないことは、
それにめざめている仏に帰依し、おまかせするより方法はあるまい、というのである。
ここで注意しなければならないのは、法然上人はけっして「酒を飲んでもよい」と
いってるわけではないという点である。
酒は飲まないにこしたことはないが、どうしても飲みたければ、念仏を申せるような
飲み方をしなさい、というのである。
こうした現実的な考え方は、つまり、なにが善であるかを問わず、誰のために、
どのように善をなすかを問うているのである。
《法然・和語燈録》
平成18年2月 ●名声を求めない
【人の情欲に随って華名を求むるは、譬へば香を焼きて、
衆人其の香をきけども、しかも香の自ら以て熏り、自ら焼えたるがごとし】

『四十二章経』は、中国後漢の明帝が、あるとき夢のなかで金人(金の仏像)
を見たため、使者を西域の月支国に送り、持ち帰らせ翻訳させたと伝えられるもので、
中国ではじめてのお経といわれている。
 仏教ではしばしば、名声(華名)を求めることに
あまりにも急な人々の愚かさをいましめている。
 そもそも名声とは、虚名であって、実体があるわけではない。たまたまマスコミで
もてはやされたり、世間の人々のうわさにのぼっているにすぎない。
 にもかかわらず、その名声が実体であるかのように錯覚し、得意満面でその名声を
ひけらかすようになってしまったらおしまいだ、というのである。
 たしかに、周囲の注目を集め、ちやほやされるのは心地よいかもしれない。しかし、
それにあぐらをかいてしまうと、傲慢さが芽生え、どうにも鼻持ちならなくなってくる。
 そして、スキャンダルを引き起こしたり、落ち目になると、
今度はその名声があだとなって、有名税を払わされることになる。
 いたっずらに有名人になりたがる人は、日蓮の『開目鈔』にある
「愚者にほめらるるは第一の恥なり」
との警告を、よくかみしめてみる必要があるのではなかろうか。
《四十二章経》
平成18年1月 ●誓いを立てる
【誓願なければ、牛の御するなきがごとく、趣くところを知らず。
願来って行を持すれば、まさに所在に至らん】

魔訶止観』は、一念に三千の世界が現出するといわれる心のあり方の
重要性を説いた書物で、中国や日本の天台宗の基本的なテキストになっている。
人間の欲望は、ちょうど騎手を失った馬のように、野放しにされるとどこまで
暴走するかわからないから、誓いを立て、その成就に向けて心を
コントロールしなければならない、というのである。
そうした自由奔放に流れがちな心をととのえ、意志を強くするには、
たとえどんなに些細なものでもかまわないから、「これだけはやるぞ」という
実行可能なプランを立て、それを神仏に誓い、願をかけたらどうだろうか。
たとえば、今年中にはかならず運転免許を取得してみせるとか、
毎月の無駄な出資を節約するとか、弁解をしないとか、
自分に実行できそうなことを誓うのである。
新鮮な気分の年のはじめや人生の区切りの年は、
その絶好の機会となるにちがいない。
《智・魔訶止観》


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