●平成14年10月〜平成15年12月

平成
16年
12月
●反省を忘れない
【己を反るものは、事に触れてみな薬石となり、人を尤むるものは、
念を動かせばすなわちこれ戈矛なり】


つねに反省を怠らない者は、なしたる事がみな良薬となるが、
つねに他の過失を責める者は、心を動かすことがそのまま自分を傷つける凶器になる、という。
前者は徳を積んで善行の道を開き、後者は自分の過失をひとに転嫁して、悪行の源を深くするからだ。
たとえばA氏とB氏が共同事業をして失敗したとする。
A氏はその過失を自己反省し、失敗の責任を痛感したが、
B氏は同じ過失を犯したにもかかわらず、それに知らぬ顔の半兵衛をきめこみ、
A氏の過失を責め、彼にその責任を全部負わせてしまった。
そのためにA氏は世間から無能力者と嘲笑され、B氏は同情された。
これは一見、A氏が損し、B氏が得したように見えるが、事業の失敗から学んだのはA氏であり、
B氏は何も得るどころか、自他をあざむき、二重の罪を犯している。
シェークスピアも、「過失の口実は、かえって、その過失を大ならしむ」といい、
孔子も、「過ちて改めざる、これを過ちという」(『論語』)といっている。
自分をさておいてひとを責めても、何の益もないのである。

《洪自誠・菜根譚》
平成
16年
11月
●初心をつらぬく
【われ超世の願をたつ、必ず無上道に至らん。この願満足せずんば、誓って正覚を成ぜじ】

この一節によって、法蔵菩薩という求道者が、浄土という人類の理想の世界を実現させるために願をおこし、
もし実現できないなら仏にならないと決心し、ついに長い修行の末、成就させたという。
わが国ではじめて南極大陸に足跡を残した白瀬矗は、幼いころ国学の先生から極地探検の話を聞き
「自分がやってみよう」と志を立てた。軍隊に入ってからその計画を具体化し、
大隈重信を後援会長に仰ぎ、同志を募って準備にとりかかったが、
この大事業に政府は一銭も補助をしなかったので、寄付で賄わなければならなかった。
しかし、けっしてくじけることなく、わずか二百トンの開南丸で東京芝浦を出港し、
明治四十五年一月十六日に南極大陸に上陸し、ついに初心を貫いたのである。
何事も、やるとなったらどんな障害が前に立ちはだかろうとも貫徹することが大切で、
それをコツコツ実現に向かってし続けることは並みたいていなことではない。
それにひきかえ、途中で「いちやめた」と断念することはたやすい。


《無量寿経》
平成
16年
10月
●いつでもどこでも
【平生の念仏の、死ぬれば臨終の念仏となり、臨終の念仏、延ぶれば平生の念仏となるなり】

念仏往生についての十二の問答の一節で、どこで念仏をしようと
こころが決定していれば往生することは疑いないことを説いている。
よくわれわれは学校や勉強部屋でないと学習できないような気持ちになり
勉強の時間を割り当てて机に向かっていれば勉強しているような錯覚を起こす。
しかし、やろうと思えばたとえ通学の途中であろうと、トイレのなかであろうと、勉強できないことはない。
二宮金次郎は、薪を背に運ぶ途中でさえも読書をし続けた勤勉な人として知られるが、そこまでしなくても、
車中での読書や考えごとくらいはできるはず。
「一生懸命」ということばは本来「一生懸命」ということで、自分の今いるところで、
いのちがけでできるかぎりのことをすることである。
『景徳伝燈録』に、
「吾れ常に此に於て切なり」とあるように、自分の今やるべきことに全力投球することだ。
一流の学者や芸術家は、自分の疑問とする問題解決のアイデアやヒントが得られると、
真夜中でも飛び起きてそれをメモをとり、そして製作にとりかかるという。
われわれも、せめてその万分の一くらいの気持ちを持ち合わせたいものである。

【法然上人】
《念仏往生要義抄》
平成
16年
9月
●率先実行する
【衆生 仏を礼すれば、仏これを見たまふ。衆生 仏を唱ふれば、仏これを聞きたまふ。
衆生 仏を念ずれば、仏も衆生を念じたまふ。】


自分の仏への対峙の度合に応じて仏もこたえてくれるのだという、われが仏になり、
仏がわれになる「唯仏与仏」(ただ仏のみが仏を与える)の境地をあらわしている。
江戸時代の念仏信者である妙好人・佐市にも、
「佐市が仏をおがむことは、仏がきいて助かるのではない、助けあるのを頂くばかり」
ということばがある。
こちらがやることは、けっして一方通行ではない、というのだ。
現代の仏教詩人坂村真民氏も、念ずれば 花ひらく ・・・・・と うたっている。
以上の宗教的な信仰の境地は労使関係にもあてはまり、自分が相手を想いやって率先実行すれば、
それに応じて、相手はついてきてくれるもの。
何もしなかったら、相手もサボり始めるにちがいない。
かつて江田島の海軍兵学校では、
「目で見せて、耳で聞かせて、して見せて、褒めてやらねば、誰もせぬぞよ」
と指導者教育を徹底させたそうであるが、今日でも、この精神は、充分生かされるべきであろう。

【法然上人】
《勅修御伝》
平成
16年
8月
●弱味につけこまない
【いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれか一人としてやみしぬる人あらん】

これは、法然上人が源頼朝の妻政子のために浄土宗のエッセンスを述べたものの一節である。
鎌倉時代の南都北嶺の仏教は密教が全盛で、人々は生きることのむごたらしさからの救いを
加持祈祷に求め、そうすることによって病気を治し、延命を願っていた。
それに対して、法然上人は祈ることによって病気も治り、生命が延びるのならば、
誰一人としてこの世で病気をしたり、死んだりする人がいようか、というのである。
戦後、新興宗教が急速に発展したうらには、貧・病・争という人間の三大苦悩にうまく対処させて、
即効薬的な解消法を与えたことは見逃せない。
しかし、残念なのはそれは一時的なうさ晴らしにはなっても、究極的な解消法にはなっていないことだ。
欲得で集まる信者は長続きせず、効能のききめがうすれるに従って教団離れをし始める。
それを阻止するために、今度はバチが当たると称しておどしにかかる教団もあり、
これではまるで暴力団と五十歩百歩だ。
商売事やひととの交際にしても同様に、相手の弱味につけこんで騙したり、強迫したり、
という人後に落ちる行為はけっしてすべきではなかろう。

【法然上人】
《浄土宗略抄》
平成
16年
7月
●よき友よき人生
【悪しき友と交わるなかれ、いやしき友を侶とせざれ。こころ清き友と交わるべし。上士を侶とせよ】

現代人はとかく多くの友をもつことを誇り、それらの友から招かれ、
招くことが人気や人格のバロメーターのように考えがちである。
しかし、それらの友がはたして真友かどうかとなるとはなはだ疑問だ。
真の友であるかどうかは自分が苦難にあい、それを友に打ちあけたときにわかるという。
「順境は友をつくり、逆境は友を試みる」といわれるように、
つまらぬ友は”イザ”というときには、コソコソと逃げ出してしまうからだ。
真友を生涯のうちに一人でも得られる人はしあわせである。

『論語』に、
「交わって益を得る友に三種類あり、すなわち、
正しいと思うことを直言する者、ウソをつかない者、見聞の広い者である。
これに対して、交わって損をする友に三種類あり、
それは迎合する者、不誠実な者、なれなれしい者である」と述べている。

人物を評価する場合には、本人を取り巻く友を見れば、その人がどういう人間であるか、
だいたいの見当がつくものである。
「類は友を呼ぶ」 「朱に交われば赤くなる」といわれるように、よき友や悪しき友が本人のそばにいれば、
本人自身もその感化を自然に受けるからだ。

《法句経・七八》
平成
16年
6月
●先入観を捨てる
人間の価値は、えてしてその学歴や肩書、知名度、知識の有無、
そつのなさなどによって見分けがちであるが、
真の価値はそういう世間的な資格できまるものではなく、ひとから何と言われようと、
ひたむきに自分のやるべきことに向かって努力するところにあるのだ、という。

かしこい人間はどこにもいるもので、彼らはうまく世の中を泳ぎ渡り、
抜擢されてよい地位や肩書を得、常に陽のあたる人生の表街道を大手を振って闊歩するが、
そんな人間になるよりもたとえ日蔭であってもよいから、
自分が本当にやるべきことに専念していたほうが、どれほど有意義なことか。
世間ではたしかに前者のほうが価値ある生き方と評価され、見映えもよい。
しかし、それらははかない栄華でいつしかはぎとられていくものだ。

かつて日本ペンクラブの会長であった高橋健二氏は、
「文士には人間のクズが多い」といわれたことがある。
はなばなしく文壇で活躍し、マスコミにもてはやされて、
有名人となった小説家などはさぞかし高邁な人格の持ち主であろうとふつうは想像するが、
実際に逢ってその裏表を知るにつけ、さもありなんとうなずけるふしがある。
肩書や知名度はその人物をはかる一応の目安にはなるにしても、
そうした先入観が裏切られることもあることを承知しておかねばなるまい。

【道元】
《正法眼蔵
随聞記》
平成
16年
5月
●時間空間を超えて
無の関門(悟り)を通る者は、先師に出会えるだけでなく、過去の祖師たちと相対し、
彼らと一つの眼で見、一つの耳で聞くことができるという。
真実の世界は、誰の所有物でもなく、「人間の極限は神の出現の機会」であり、
自我を捨て去ったところから、この世界がひらけ、
そこで多くの先駆者たちに出会える、というのである。

鎌倉時代の法然が浄土宗を開いたとき、他の人々から、
「汝の師匠は一体誰であるか」と詰問されたことがある。
普通どこの宗派でも「師資相承」といって、
おしえはかならず師匠から弟子へと伝えられなければならないとされていたから、
これは当然の質問であった。

これに対して法然は、「私の師匠は中国の善導大師である」と答えている。
海を隔てた、四・五百年前の人物が師匠であるというのであるから、
周囲の者は吃驚してしまった。

しかし、そうしたよき人との出会いには、直接対面するだけでなく、
時代や場所が隔たっていても、その教えに接し、それに直参するという面もあろう。
チベットの諺に、「弟子の準備ができると師が現れる」というのがあるが、
法然にとてはまさしくその師が現前し、いつでもその許にあるという安心感があったようだ。

【無門慧開】
《無門関》
平成
16年
4月
●心身をきたえる
『時々は別時の念仏を修して、心をも身をも励まし整へ進むべきなり』

別時の念仏とは平生の念仏とは別に、
特別の道場を設けて期間を限ってともに念仏を修行することで、
「阿弥陀経」に説かれる一日ないし七日間一心不乱に念仏せよとの趣旨にのっとっている。
 毎日同じことに携っているとマンネリ化することは、心だけでなく身体も同様で、
ときどき活を入れることによってはげみになり、成長を促進させるらしい。

 それはちょうど、竹の節に似ていはしまいか。
その竹は節をバネにしてのびざかりには一日で実に一メートル以上ものびるという。

 お祭りや法事などの年中行事や、試験や宿題や運動部の合宿強化訓練も、
特定の期間に共通の目的を持った人たちが集まり、
ともにはげまし合うから、別時念仏の現代版といってもよかろう。
 できれば、そうした自己鍛錬の機会は他人から与えられるのではなく、
自ら進んで持つにこしたことはない。

 しかし、「か弱き者、汝の名は人間なり」で、
意志が弱いと強制的にでもこうした場に組み込まれなければやる気が起きないようだ

 ふだんの怠け心を自分自身で叱咤激励するために、
ときには進んで講習会や勉強会に参加して自らを鞭打ち、
いくらかでもましな人間になりたいものだと願っている。

【法然上人】
《勅修御伝》
平成
16年
3月
●ぼんやりしない
中国浄土教の祖・善導大師が浄土往生の実践行として示した詩句の一節である。
しかとした人生を歩まずに、浮ついた毎日を送る者をいましめているのが、この一文なのである。
「今日も一日、なんらなすすべもなくむなしくすごしてしまった」
と歎いている者がいるにちがいない。
これではいけないとあせればあせるほど、いたずらに頭や手足が空転し、
たちまち一日が過ぎ去ってしまう。

『徒然草』(百八段)には、
「一日のうちに、飲食、便意、睡眠、言語、行歩、やむ事を得ずして、多くの時を失ふ。
そのあまりの暇いくばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して、
時を移すのみならず、日を消し月を亙りて一生を送る、もっとも愚かなり」 とある。
今日もいたずらに暮れなんとする自分自身の日常生活をゆび指されているようで、
なんとも空恐ろしい。

【善導大師】
《往生礼讃》
平成
16年
2月
●妄心もし起こらば、知って随うことなかれ。
妄(まよい)もし息(や)むときは心源空寂なり。
万徳ことにそなはり妙用きはまりなり。

妄心とはとらわれの心で、これに縛られるとニッチもサッチもいかなくなり、
人生が大きく狂って自滅することを意味する。
妄想にとらわれると、人は自分の愚かさを知らず、傍若無人の愚行を犯し、
社会的に糾弾されてはじめて自分の非に気づくようだ。
そうならないためにも、まず自分をよく見つめよう。


龍樹の思想は、すべてのものに実体がなく、空の境地になるときにのみ、
人間は真の自由を得る、という大乗仏教の基本的教えを説いた。
【龍樹】
《菩提心論》
平成
16年
1月
■因縁
●四つの真理
苦しみの真理(苦諦)
・・・執着を離れない人生はすべて苦しみである。
苦しみの原因(集諦)
・・・煩悩「激しい欲望」
苦しみを滅ぼす真理(滅諦)
・・・煩悩をなくし、すべての執着を離れれば苦しみもなくなる。
正しい道の真理(道諦)
・・・苦しみを滅ぼし尽くた境地に入るには
   八つの正しい道(八正道)を修めなければならない。
   ・正しい見解 ・正しい思い ・正しい言葉 ・正しい行い
   ・正しい生活 ・正しい努力 ・正しい記憶 ・正しい心の統一


これらの真理を身につけなければならない。
この世は苦しみに満ちていて、
この苦しみから逃れようとする者は
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ到達し得る。
さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。


四つの聖い真理が明らかになったとき、
人は初めて、欲から遠ざかり、世間と争わず、殺さず、盗まず、
よこしまな愛欲を犯さず、欺かず、そしらず、へつらず、ねたまず、
瞋らず、人生の無常を忘れず、道にはずれることがない。


【参考書籍】 仏教聖典 仏教名言365日
【著者】 松涛弘道
【出版社】 仏教伝道協会 日本文芸社

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